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リコーのオフコン(続きです) 江須扇 2003-9-28 13:11

5 リコーのオフコン(続きです)
江須扇 2003-9-28 13:11  [返信] [編集]

前回からだいぶたってしまいましたが、続きを書きます。



MX500シリーズの前に最後のRICOMであるIシリーズの事を書く事を忘れてました。

このシリーズはMXシリーズと併売され、その後のIBMとのOEMのRicoh−iシリーズが出てからも併売されました。

名前が紛らわしいのでゴチャゴチャに話がなってしまいますが、RICOM−Iはそれ以前のCOMPOSが動く最後のシリーズということです。

このころはパソコン台頭し始めており、スタンドアロンオフコンは冬の時代に入ってしまったと言うか無くなるのではという時代でした。

リコーはマイツールという独自仕様のカルクソフト(リコーではワープロ機能、データベース機能もあるので、一つのソフトで出来るので融合ソフトと称していました。)のみを動かすソフトウェアもハードウェアも一体のパソコンを販売していました。

このマイツールのハードウェアは日立のOEMで、日立のB16シリーズと互換性がありました。

(後にIBMと提携した時はIBMのOEMのPS/55系もありました。)

ソフトウェアはソードのPIPSに似ていました。この辺の詳しい事情は忘れました。

本題に戻すと、オフコンデータのパソコンの有効利用という話が盛んになり、N5200のLANシリーズも評判になっていた時期でした。そこでLANシリーズに対抗してマイプラン、マイファイル、マイフィギア(マイグラフは他社で商標登録済みで使えなかったそうです)をリリースしました。

その後、このRICOM−Iシリーズも偶々か、意識しては解りませんがCPUがインテル互換でしたので、リブート方式でMS−DOSを動かすことができるようになりました。

(当初のRICOM2000はザイログ社のZ80と聞いていました)

そこで、マイツールも動かす事ができました。

今にして思えば、N5200にやり方に似ていました。PTOSという独自OSとMSDOSがやはり動きましたね。

その後、リコーとNECの仲は大人の関係(ビジネス上取引をするが仲が悪いという事です。)でむしろリコーはIBM側に属すイメージとなりました。

余談ですが日立とはパソコンとワープロのOEMの関係でそれ以上はなかったようです。

(俗に日立は製造部門と販売部門が分かれていて、販売部門の口出しは無く、営業が提携するという話がなかったようです。)

個人的にはCOMPOSは非常に安定したOSだったのでハードウェアの製造を諦めた時、COMPOSをN5200に乗せるか、日立のB16に乗せるか、その後のPS/55シリーズに乗せるかして生き延びて欲しかったと思います。

が死んだ子の年を数えてもしかたがないですね。

リコーは全く別の方法でRicoh−iシリーズを出しました。

IBMは所謂ベイパーウェア(VAPORWARE)でAS/400を直ぐにでも出すような事を言っていましたが、なかなか販売しませんでした。

従って提携当初は、PS/55のOS/2仕様をi735、System36をi736として販売していました。

スタントアロンの場合はCOBOL/2(NECとは無関係です)という名前でMicroFocus社のLebel?COBOLのIBMのOEM版というところでしょうか。リコーのCOMPOSの互換機能はサブルーチンで提供されました。

COMPOS−>UNIX(MXシリーズ)−>OS/2となったので、レベルアップではなくレベルダウンでした。

イーサネットではなく専用のネットワーク(トークンリング?)OS/2同士を繋いだクラスタ接続をLANマネジャーで繋ぐ事もできたのですが、COBOL/2のREAD LOCK が ステータスが帰ってくるだけで、自分でループしないと次に進んでしまい、排他機能の制御ができませんでした。

OS/2は最初のバージョンJ1.0で非常に不安定で苦労した記憶があります。

此れを業務で使ったのはリコーだけはなかったのでしょうか?

私から見ればリコーはIBMの体の良いOS/2のバグだし担当でした。

その後のJ1.1 PMプレゼンテーションマネージャもあまり良くなく、不安定になる位なら、J1.0を使い続けるという感覚でした。当時はPMのWindows切替より、J1.0の全画面切替の方が安定していた記憶です。

i736(S/36)はSSPのOS下でRPGでネイティブの画面一括入出力方式で開発する方法と

SIF接続ですが、NECでいうRDB/FILEアクセスキットの方式で、i735のCOBOL/2で開発しDBだけをi736を使うという項目単位入出力方式もとれました。

この部分は今から15年位前に出来ていたというのはIBMの技術力はすばらしかったと思います。

当時もNECもAVX/NETを使ったかどうかは忘れましたが、分散方式はとれたと思います。

しかし、集中方式でもNECの場合は項目単位入力方式なので特に必要がなかったと思います。

(汎用機のACOSとN5200では有効な手段だったようです。)

その後、AS/400が発売され、下位機をi740というシリーズ名で販売されました。

下位機と言ってもS/38クラスなので、多くは売れなかったと思います。1年位してから、本格的にS/36クラスの更に下のクラスが発売され、ようやく本格的に売る事ができたのですが、本来全てをOS/400での開発にできれば良かったのですが、売り方を間違えたので、市場にはCOMPOS、UNIX、OS/2、SSP、OS/400、A−VXと6種類のOS下で開発されたシステムあり。それをサポートしながら、増員はしたというもののいままで、COMPOSとA−VXだけしか知らない要員で元号対応、消費税対応、システム移植作業をしていた為現場は大混乱でした。

今となっては結果的にはUNIXとOS/2とSSPはつなぎであったので、COMPOSを引っ張るだけ引っ張って、A?VXで逃げていれば良かったと思います。PS/55にCOMPOSを乗せOS/400との分散方式も開発して本格的に安定してからOS/400のシステムを開発していれば混乱もすくなかったと思います。IBMとしてはNEC製品を売られる事が困るので巧く話をしたのでしょう。

まんまとIBMの戦略に乗っかった為、その後の運命はどうなったのでしょうか?

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