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1.U-Uコンビのオフコン


1.1 ウノケ電子工業の小型コンピュータ

1960年11月に、石川県宇ノ気に、電子計算機の設計製造を行うためにウノケ電子工業が誕生しました。

約1年後の1961年11月に1号機として、USAC5010という小型コンピュータが完成しました。続いて同年暮れに2号機のUSAC3010が完成しました。

コンピュータ開発には膨大な予算がかかることからその資金調達と、販路の開拓のため、ウノケ電子工業は内田洋行という商社にUSAC3010を持ち込みました。内田洋行は厳しい調査の結果、見込みありと判断、1962年に内田洋行とウノケ電子工業との間で正式契約書が取り交わされました。

こうして、ウノケ電子工業がコンピュータを作り、内田洋行がそれを売るという「製販分離体制」という特徴を持ったU-Uコンビが誕生しました。

資金と販路を得たウノケ電子工業は、続いてUSAC1010の開発を開始し、1963年5月にプロトタイプ完成、その後量産して1965年3月頃には10台程度がユーザに納入されます。
このモデルはさらに改良が行われ、USAC1020、USAC1020S、1968年2月にUSAC2500、1968年9月にUSAC1500と次々に発表されていきます。これらのどれもが500万円前後からと当時としては安価で性能も良く、USACブランドは小型コンピュータの一角を占めるまでになりました。

1.2 ユーザック電子工業のビリングマシンとオフコン

一方、1966年にビリングマシンとしてUSAC500を発表しました。続いてUSAC300、USAC400を発表、これらがU-Uコンビのオフコンの元祖となります。

この頃になるとユーザックブランドが有名になり、1969年にウノケ電子工業からユーザック電子工業と社名が改まりました。

1971年には、USAC720シリーズが発表されます。このコンピュータはUSAC720/20からUSAC720/90の同一アーキテクチャで処理性能の異なる複数のモデルが用意されていました。

ユーザックブランドのビリングマシンはさらに進化し、1973年5月にUSAC620が完成しました。これはマイクロコンピュータ内蔵、高速プリンタ、エッジカード、紙テープ読み取り機、紙テープパンチなども接続可能というもので、この頃になるともはやビリングマシンと小型コンピュータの境目がなくなってきました。その後ビリングマシンの集大成とも言えるUSAC320を1975年に発表、ちょうどオイルショックによる不況から脱出している時期と重なったこともあり、非常に売り上げを伸ばすことができました。

さらにこの当時のもうひとつのオフコン系列とも言えるのが、ELCOSシリーズです。ELCOSシリーズは、1970年10月に在庫管理機としてELCOS20が発表されています。このモデルはさらにパチンコ玉在庫管理装置エースタック2000と発展し、後の電子式パチンコ管理装置のはしりとなりました。

1.3 富士通との提携

創業当時と比べると企業規模は大きくなったものの、ユーザック電子工業はコンピュータメーカーとしてはあまりにも小企業でした。もしコンピュータ開発をこのまま続けるとしたら、国のバックアップを元に膨大な資金を投入できる富士通やNECなどのコンピュータメーカー、海外のIBMなどの巨大な会社を相手にしなければなりません。
一方この当時、富士通という会社は大型や超大型のコンピュータ分野で有名でしたが、それに比べて小型のコンピュータ分野が弱く、その分野を強化する必要がありました。

このままでは苦戦必至という状況に対処するため、ユーザックは富士通と協力して超小型コンピュータを作っていくことを決定、こうして1972年3月に三社提携が発表されました。

こうしていよいよ1973年5月から富士通とユーザックの新しいコンピュータの開発計画「V0計画」の検討が始まりました。この計画では3種類の系統のオフコン(コード名:V01、V02、V04)が開発されることになり、ユーザックは一番小さいモデルのV01の全てと真ん中のモデルのV02のハードウェア部分の開発を担当することになりました。
コード名:V01のオフコンは、1975年12月にUSAC820という正式名称でユーザック/内田洋行から発表されました。

この後は、ユーザック/内田洋行と富士通は共通のハードウェア/(OSなどの基本)ソフトウェアをそれぞれのブランド名で販売していくことになります。もちろん全く同じという訳ではなく、オフコン上に搭載される業務プログラムやオフコンに接続される周辺装置にそれぞれオリジナルなものを用意し、工夫を凝らしていました。

ユーザック電子工業と富士通の関係は、ユーザックがPFUと名前が変わった今まで続いています。




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地元の活性化のため、地元の有力者が出資して、若い技術者を呼び寄せたのが始まりのようです。技術者の中心人物は、地元出身の元日立製作所社員で、日立ではコンピュータの研究開発をしていたようです。
1969年にウノケ電子工業からユーザック電子工業と改名、さらに1978年にパナファコム合併してPFUとなった。
電気試験所が開発したETL MARKIVの回路を参考にしているようです。資料によると”ゲルマニウム・ダイオード1万個余り、トランジスタ約2千個使用、コアメモリ、標準装備として、光電式高速テープリーダーをそなえている。テンキー方式による入力および演算が可能という特徴がある。”とのことです。
ちなみにUSACは、Unoke Standard Automatic Computerの頭文字をとったものです。
USAC5010と比べて3分の1のサイズで、価格も600万円から800万円という当時の同クラスのコンピュータと比べると安価であったらしい。
他の大メーカーが新型コンピュータを出すたびに大型化を進め、名前もより大きな番号にしていっていました。大メーカーへの対抗心から、それとは逆に、改良して性能は上げるが大きさは小型化していくという方針でした。このため改良機が開発されるとその名前も「USAC3010」「USAC1010」と番号を小さくしています。
当然、両社の社名(Uchida-Unoke)の頭文字をとっているわけです。
これも資料によると”記憶容量は標準で200語、最大1千語。光電式紙テープ読み取り機、高速度紙テープ穿孔機が付けられる。トランジスター、ダイオード使用。内部記憶はコアメモリー。”USAC1020やUSAC1020Sもだいたい同じようなスペック。
IC全面採用のコンピュータ。当時としては画期的なもの。
1970年7月発表のUSAC300の上位モデル。
資料によってUSAC300がオフコンの元祖だとか、USAC5010がそうだとか書かれています。どこからがオフコンになるのかは資料によって意見が異なる。
ノン・プログラマブル式を特徴とする、IC、コアメモリ、磁気ドラム使用の在庫管理用小型コンピュータ
当時国産コンピュータ育成政策が取られ、主要コンピュータメーカーは国から数々の援助を得ていた。
「ユーザックの挑戦」という本によると、ユーザックが通産省に相談に行ったところ、「日本は自由経済の国家だから、コンピュータを製造するのも販売するのも全く自由で何の制限もありません。要するに、原則として誰がどんな商売をやってもかまわないということですが、ただコンピュータの場合に限り、過当競争を避けるため、すでに”産業構造審議会”によって選択的に指定された企業以外に対しては、一切援助を行わないことになっていますし、また”IBM特許”の使用についても斡旋もしないことになっています。このことだけは覚えておいてください。」と門前払いされたらしい。
1974年の貿易自由化によって、海外のコンピュータが一気に日本に流れ込む恐れがあった。
この計画の詳細については、富士通の章で説明しているのでこちらでは省略します。
ユーザックのUSAC820と富士通のFACOM Bmはブランド名だけが異なる同一製品。
三社提携時の契約では、オフコンの上位モデルはFACOMブランドとして内田洋行がディーラーとして販売する、そして1000万円以下のものについては同一モデルをFACOMブランドとUSACブランドとして販売することになっていた。つまり初期はUSAC/FACOM両ブランドは下位モデルのみで中上位モデルはFACOMブランドのみ。しかし徐々に中位モデルのUSACブランドも用意されていった。
ユーザックのオフコンも富士通のオフコンもユーザックの工場で一括生産されていました。