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NECオフコンの歴史


1.オフコンの先祖達(〜1972)

前章では1966年まで話を進めましたが、1960年頃まで話を戻します。

1.1 国民車的コンピュータ

1950年後半からは高度経済成長期に入り、業務の効率化のため、大手の会社を中心にPCSや記帳会計機などが導入され始めました。 しかし、これらの機器はIBM、RR、バローズなど外国製で占められていました。ちょうど1960年代初頭のアメリカではPCSからコンピュータに代わる時期でした。そこで日本がアメリカに追いつくためには、PCSではなくコンピュータを国産化し普及させれば良いわけです。しかし、当時のコンピュータはとても大型で価格も高く、管理するための費用もかかるため、中小企業が導入することはできませんでした。普及のためには価格が安く、狭いスペースに置く事ができるような大きさであることが必要でした。できるだけ安価にするためには、性能を抑えたコンピュータにするしかありません。

こうして、性能を犠牲にした代わりにその分安価なコンピュータ「国民車的コンピュータ」という概念が生まれます。
これに対応するNECの「国民車的コンピュータ」が、前章で名前の挙がったNEAC-2205(やその後継に当たるNEAC-2200モデル50)となります。

1.2 NEAC-1200シリーズ

このような背景があり、日本事務器(株)からの電子会計機を作ってほしいという要望が持ち込まれ、それに応えて1961年に発表されたのが「国民車的コンピュータ」NEAC-1201です。トランジスタ式コンピュータであるNEAC-2201より登場が後にもかかわらず、このNEAC-1201はパラメトロン式のコンピュータでした。これは量産されることを考えて、まだ信頼性も低いトランジスタよりも、既にNEAC-1101より使用されて実績もあり安定しているパラメトロンを選択した結果でした。あえて性能を押さえて信頼性・安定性を優先させた設計は大成功で、価格も数百万という比較的安価だったこともあり、圧倒的な売れ行きを見せました。

NEAC-1201とその改良型のNEAC-1201A(1963年)、NEAC-1210(1964年)で、累計販売台数が870台。これらは全て日本事務器(株)を通じて販売されました。

1.3 NEAC-1200シリーズのIC化

しかし、1964年にIBM社から第三世代コンピュータIBMシステム360が発表されると、その流れはNEAC-1200シリーズのような超小型コンピュータにも及び、ライバル各社からも次々とトランジスタやICを使用した新製品が登場しました。さすがにパラメトロン式のNEAC-1201シリーズでは限界が見えてきたため、早急にIC化する必要がありました。
ようやく1967年に全IC式超小型コンピュータであるNEAC-1240が発表されました。これもベストセラー機となり、NEAC-1240とNEAC-1240D(1972年)合わせて1400台以上販売されました。

1960年代末頃にNEAC-1240やNEAC2200モデル50で、納入後1,2年すると次々にICが劣化するという事故が発生しました。原因は、IC製作中における作業者の息や唾が年月とともに金属材料を浸食したことによるものでした。また、温度が上がるとICが不調になる問題が発生するなど、生産工程の改善やクレーム処理に忙殺されることとなりました。

コンピュータの進歩は早く、1970年代に入るとNEAC-1240系も旧型化してきました。さらにその対策として開発したNEAC-1260が結局商品化は見送られるなど、NEAC-1240の後継機がなかなか決定せず苦しい状況が続きました。この間、日本事務器は後継機が待ちきれず、自前でコンピュータの設計を行ったりしています。




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当時のPCSや会計機は、機械的、電気的なものから電子機器に移行するところで、アメリカでもこれら機器のコンピュータ化はこれからの状況でした。また、アメリカより事務機械化の遅れていた日本は、これからPCSや会計機が普及するという時で、事務業務にPCSや会計機ではなくコンピュータを導入することによって、一気にアメリカに追いつくチャンスでもありました。
政府の”国民車構想”と高度経済成長を背景に、1960年代後半には日本の自動車保有台数が1000万台突破、自家用車は新三種の神器の1つにあげられていた。当時高価であったコンピュータを民間に普及させようということで、”国民車構想”にあやかろうと1960年代に一部ではやった(らしい)用語。国民車的コンピュータという言葉はそのうち廃れていったが、当時各社の作った「国民車的コンピュータ」は時勢に合ったのかかなり売れた。
ほかには、日立のHITAC201、富士通の(ベストセラー中のベストセラーの)FACOM230-10とFACOM230-15など。低性能だが安価というコンピュータは当時のアメリカには無いもので、オフコンという独自分野の下地を作った。
当時は事務機械を輸入販売していたが、NEC製のタイムレコーダを扱ったことが縁で、電子会計機の開発を依頼することになった。
当時の分類で言うと超小型コンピュータ。演算素子にはパラメトロン(NEAC-1102のものよりもさらに動作周波数を落として信頼性をあげた)、メモリは安価な磁気ドラム(250語=約12.5Kビット)、入力装置は「NEAC WRITER」というコンピュータ用入力のタイプライタ。出力は紙テープ。「日本コンピュータ発達史(南澤宣郎著)」によると「外国製の記帳式会計機に比べメカ部分ではやや劣るけれども、プログラム内蔵式だけにその他の点ではずっとすぐれたもの」であった。コンピュータ化されているとはいえ、あくまでも会計機の一種であったので、実はPCSなどの援用が必要でした。
主に読み込みと打ち込みのスピードアップを行いました。
NEAC-1240の場合だが、レンタルなら月14万5千円。当時の本格的なコンピュータのレンタル料は月1000万円以上、安価な「国民車的コンピュータ」小型コンピュータのNEAC-2205でも月50万から70万円。ちなみに1960年の大卒初任給は月約13000円。
コアメモリを採用し、記憶容量を2倍(500語)、パンチテープのコードを6ビット方式から8ビット方式に変更。
計算速度はNEAC-1210の200倍、記憶容量はコアメモリを使用し最大1600語、外部記憶装置として磁気ドラムを2台接続。ベストセラーの原因はIC化による性能向上や徹底的なコストダウンによる価格の低下の他、専売していた日本事務器のNEAC-1201以来の販売ノウハウの影響も大きい。
プリンタの性能アップを行いました。
レンタル方式で販売すると、(旧型となる)NEAC-1240のレンタルバックの多発が予想されたため、商品化が見送られた。
結局1960年代末のIC劣化事故にかかわる混乱で開発スケジュールが遅れた上に、ハネウェル社の方針に振り回され開発方針の統一がされなかったことからこのような状況となった。