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NECオフコンの歴史


6.オフコン時代のまとめ

6.1 オフィスコンピュータ時代の進化

この頃の機能を説明する上で欠かせないものとしては、日本語入力機能(変換機能)の進歩が挙げられます。NEACシステム100シリーズの漢字対応は1981年から始まりました。当初の漢字変換は、表示選択と呼ばれ、カナを入力するとその読みの漢字が一覧表示され、その中から目的の漢字を選択するというものでした。ITOS-4 R6.2(1982年)においてカナ漢字変換方式(カナを入力するとその領域で漢字に変換される)、ITOS-4 R8.5(1983年)でローマ字入力が追加され、ITOS-4(V) R13.1(1985年)には文節変換方式が実現されています。このように次々に新しい入力方式がオフィスコンピュータ時代に取り入れられ、漢字が格段に入力しやすくなりました。

オフィスコンピュータ時代はいろいろな機能向上も図られています。一例としてワークステーション接続最大数を挙げると、NECシステム150/78とITOS-4(V) R11.1(1984年)の組み合わせで24台だったものが、次のITOS-4(V) R11.5(1984年)では30台となり、1985年7月にリリースされた最上位モデルのNECシステム150/88(+ITOS-4(V) R13.1)では40台まで増えています。
ネットワーク関連としては、ITOS-4 R6.1(1981年)にRFA、VWS、GTOS、また前述したようにITOS-4(V) R11.1にメッセージ管理Iとメッセージ管理IIの機能を統合したメッセージ管理IIIがリリースされています。ITOS-4(V) R13.1(1985年)では、パソコンを統合するコンピュータを目指して、ITOS-VIALANやPCサーバなどの機能がリリースされました。

また、アプリケーションソフト群に目を向けると、ITOS-4 R6.1(1981年)にワープロ、表計算などを統合したOAソフトウェアのPRISM(ITOS-4 R6.3(1982年)にて音声入力にも対応した)、ITOS-4 R8.1(1983年)に伝票操作システムとしてPALET、ITOS-4(V) R11.1にデータベースソフトのITOS-RDBがリリースされています。1984年(年代的にはITOS-4(V) R11.5と同時期)にOAソフト群(LANWORD、LANFILE etc.)であるLANシリーズがリリースされ、ITOS-4(V) R13.1(1985年)にITOSデータファイルとLANシリーズとの間でデータ交換を行うためのITOS-VIALANがリリースされています。(オフィスプロセッサとなったITOS-4(V) R17.1(1986年)に、LANシリーズをワークステーション側に搭載することによって、よりITOSとLANシリーズの融合を図っています。)
NEC以外には、大塚商会のSMILE(1979年)、日本事務器のSALESなど、各社から数多くのパッケージソフトがリリースされていました。

オフィスコンピュータ時代は、伝票入力などの日々の基本的な業務を行うために必要な機能/便利な機能の追加やソフトウェアの充実に注力していた時代といえます。



6.2 オフィスコンピュータの販売状況

NEACシステム100が登場するまで、NECのコンピュータ部門は常に赤字でした。オフコンは、NECで初めて単体で黒字となったコンピュータとなりました。

1970年代はオフコン分野では、三菱電機(MELCOM)、東芝(TOSBAC)そして日本電気の3社が大きなシェアを占めており、”オフコン御三家”と呼ばれていました。NECシステム100シリーズは1982年から1984年までの連続3年間単独トップ(1986年、1987年も同率首位)をキープしていました。

先で述べたように、NEAC(NEC)システム100の前身であるNEAC-1200シリーズは、日本事務器の要望によって作られ、日本事務器1社によって独占販売されていました。しかし、NEACシステム100シリーズを大量に販売するためには、どうやっても1社だけでは限界があります。そこで1973年(NEACシステム100発表の年)に、NECは日本事務器との専売契約を改め、複数販売店体制を敷きました。その時に新たに販売店として加わったのは、日本コンピュータシステム(NCS)、三和コンピュータサービス、三谷商事、日本情報機器(NIC)、沖縄コンピュータセンター(OCC)、日本電気情報サービス(NEIS)でした。7社に販売店が増えたわけですが、さらにNECは販売店を増やしていきます。1975年に30社に増やす作戦として「オペレーション30」が行われ、予定を大幅に上回る72社が販売店に加わりました。後にNECオフコン売り上げに多大な貢献をする大塚商会、NEC製オフコンのOEM販売(販売提携)も行ったリコーもこの頃に販売店となっています。
以降1978年には「ビッグパワーキャンペーン」により73社から134社に、1982年には「NEC as NO.1作成」が展開され、販売チャネル数は300社を突破しました。1990年代前半の最盛期には、350社以上の販売店が名を連ねることになります。

NECのショウルームとして、Bit-InnやC&Cプラザなど各地にいろいろなものがありますが、オフコン用として作られたものがサントピアです。1975年7月にオフコンの常設ショウルームとして、新宿の住友ビルに新宿サントピアがオープンしました。このサントピアは、一般向けのオフコン教室からディーラー支援までオフコンのことならなんでも行える、オフコンのための総合センターとしての役割を与えられていました。その後、札幌、日比谷、大阪、広島、仙台など各地にサントピアが設置されていきました。
移動ショールームとして、バスを改造した移動展示車、通称NEACバスも数台作られ、各地を回りました。







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NECのコンピュータ部門は赤字が続き、大きな金食い虫となっていた。単体で黒字となったコンピュータさえなかった。このため他の部門から「情報処理部門の人間は廊下の真ん中を歩くな」とまで言われ、新聞には「日本電気、コンピュータ部門から撤退か?」と書かれた。実際当時の首脳部はコンピュータ分野からの撤退も考えていたらしい。オフコンが黒字となった後は、徐々に他のクラスのコンピュータも改善していった。数度に渡るコンピュータ部門の大幅リストラが行われたことも改善の一因である。
システム100の登場によって、今のNECのコンピュータの販売網、販売戦略は作られたといってもいい。当時のNECは電電公社や通産省などの役所と取引をしていたため、民間企業向けの販売体制が弱く、販売店(ディーラー)などもほとんどなかった。システム100を売るために販売店を開拓し、ショールームを作ることによって、今の販売網を作り上げた。これは後のパソコンPC98シリーズやN5200シリーズの普及に大きく貢献した。
また、新製品のコンピュータが春と秋に定期的に発表されるようになったのもシステム100が最初である。これは、システム100が登場する以前は、定期的に新しいコンピュータを発表しなかった(コンピュータの種類に対して技術者が不足していたためできなかった)ため、NECのコンピュータが陳腐化してしまい競合相手に負けてしまうことが多かったため、取られた対策である。
「サントピア」とは、100を表すフランス語の「サン」と英語のユー「トピア」で、「NEACシステム100のユートピア」という意味を表す。NEC最初の常設ショウルームでもある。一番多い時で、全国66箇所。今もだいたい同じ数だけ有るが、C&Cプラザなどに名前が変わったところもある。)現在は、オフコンの他にNECのパソコン、プリンタ、ファックスなど「NEC製品のOA総合ショウルーム」として活動している。
上から見ると三角形に見えるため、三角ビルと呼ばれている。1974年に新宿に完成。