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NECオフコンの歴史


2.NPLプロジェクト(〜1973/8)

NECのオフコンの先祖は、小型コンピュータのNEACシリーズ2200モデル50と電子会計機から発達した超小型コンピュータNEAC-1240の2系統です。
1970年に入るとハネウェル社との技術提携により、汎用コンピュータACOSシリーズを開発するNPLプロジェクトが始まります。


2.1 NPLプロジェクト

1962年7月にNECはハネウェル社と技術提携を結び、ハネウェル社の技術を導入したコンピュータを次々と発表したことは、先に述べました。IBM1401対抗としてH200(NEAC-2200)を発表し、IBMシステム360にはH200(NEAC-2200)をファミリ化して対抗しました。しかしIBMシステム360は次第に強化され、ハネウェル社、NEC共にH200(NEAC-2200)に代わる新しいコンピュータを発表する必要がありました。
また日本にはコンピュータの自由化という問題もありました。

このような状況の中、1968年末にハネウェル社の幹部が来日し、ハネウェルの新コンピュータ開発計画を説明し、NECに共同開発を呼びかけてきました。
この呼びかけに対しNECとして案を練り、コンピュータ開発計画「NPL(New Product Line)」を作成しました。

NPLは、超小型機から大型機まで幾つかのプロジェクトから構成されていました。S1、S2、S3というコードネームが、NEAC-2200シリーズを完全に置き換えていく汎用コンピュータを目指したもので、後のACOSになりました。これらは、ハネウェルの開発した新コンピュータを技術援助によりNECが製品化するというものでした。

一方、1969年に新しく情報処理事業に参加することになったNECのある常務が「小さなコンピュータ」に特別な関心があるということで、1971年1月頃から人を集め研究を開始しました。
これもNPLプロジェクトとして入れることになり、S.5(Sコンマ5)がNEAC-2200モデル50の後継機、S.25(Sコンマ25)がNEAC-1240の後継機ということになっていました。こちらは、ハネウェルの開発計画とは関係なく、通産省の計画とも関係ない、NEC独自のプロジェクトでした。この「小さなコンピュータ」の研究が、後にオフコンという形で結実することになります。


2.2 LAX

ある程度の準備期間を置いて、1971年12月にオフコン開発の計画承認を得ることができました。
プロジェクトの最初の成果として、1972年頃に社内開発コードネームがLAXという8ビットのコンピュータが完成しました。ファイルは磁気ドラム、入力がカセットテープ、出力はプリンターという構成でした。このコンピュータは、1972年のデータショウと東京で開かれた日米コンピュータ会議(8月開催)で公開しましたが、その後の路線変更によって、商品化には至りませんでした。


2.3 超小型コンピュータN1

LAXとは別に1972年始め頃から開発されていた超小型コンピュータがありました。丁度S1、S2、S3プロジェクトの試作機のコードネームがN2、N3、N4となったため、このコンピュータにもN1というコードネームが割り当てられました。これがNECのオフコン、システム100となりました。




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かつて、日本は保護貿易国であり、コンピュータについても輸入の制限、高関税率、外国資本の制限などにより保護されていた。1960年代に貿易の自由化が実施され、ほぼ全ての品目について自由に輸入できるようになったが、コンピュータについては最重要産業として、自由化対象からはずされていた。ところが日本の貿易収支は1965年に黒字に転じている。
一方、アメリカはベトナム戦争で国力が落ちていたところに、ニクソンショックが起こり、1966年の貿易収支は赤字となった。さらに1968年には資本主義国でのGNPが日本は2位となった。このような状況で日本は保護貿易国であることを許されず、1971年4月にコンピュータ自由化方針が決定された。この方針は、1975年末までにコンピュータの完全自由化を行うというものであった。
自由化によって日本のコンピュータメーカーは、IBMを初めとする海外コンピュータメーカーとの競争にさらされることになるため、いろいろな対策が行われた。
この計画は汎用コンピュータ(メインフレーム)開発の計画なので、本筋からそれるが、簡単にまとめると

1968年頃から計画はあったが、(NECから見ると)なかなか話が進んでいないように見えた。1970年にハネウェルがGEのコンピュータ部門(ハネウェルは大型機のノウハウがなかったので、GEの大型機の技術がほしかった)を買収して、HISを設立。当時世界第2位のコンピュータメーカーの威信をかけて計画を進めることとなった。

小型機をHISイタリア(元オリベッティのコンピュータ部門で1964年にGEが買収)、中型機をフランスのハネウェル・ブル(元マシン・ブルで1964年にGEが買収)とアメリカ・ボストン(ハネウェルの本拠地)、大型機をアメリカ・フェニックス(元GEのコンピュータ部門の本拠地)と全世界規模での開発を行った。
NECは、CPL、SPL、DIPSと複数アーキテクチャの平行開発に苦労していたため、単一アーキテクチャを希望していた。HISは、大型機(GE系のアーキテクチャ)以外は単一アーキテクチャにし、NECのための単一アーキテクチャの別の大型機を作ることを約束した。

しかし、ハネウェル系と元GE系の勢力争いや、全世界規模の開発をまとめきれなかったことなどから、途中で当初の計画は崩壊し、HISは全モデルにGEのアーキテクチャを採用することになる。日本では発売時期を発表しており、いまさらGEのアーキテクチャに変更するわけには行かなかった(GE系のコンピュータは東芝の範疇でもあった)。

イタリアのはHW、OS共に出来ていたが満足な性能が出なかったので、NECで手直ししてHWはS200、OSはACOS-2に。フランスのはHWは出来ていたので、S300、S400。ただしOSが間に合わなかったので、NECで引き取って完成させACOS-4とした。ボストンのは中止になったので、NECで図面を引き取って開発続行しS500(ACOS-4)。フェニックスのはHWは、S600、S700(ACOS-6)とした。別に作る予定だったNEC向け(ACOS-4系)の大型機はHIS側の都合でGE系となってしまい、S800、S900(ACOS-6)とした。

結局ブルがフランスのCIIと合併したときに、フランスとイタリアの作ったコンピュータはフランスの方に行ってしまい、HISにはGE系のアーキテクチャのコンピュータが残った。

1978年2月に東芝が汎用コンピュータ分野から撤退し、NECがACOS-2、ACOS-4の他、全くアーキテクチャの違うACOS-6もNECが担うことになる。

基本的にハネウェルが開発し、その成果を元に技術援助を受けたNECが日本版を作るという形なので、NECの計画はハネウェルの開発計画に従ったものとなっている。S1プロジェクト(N2)がイタリア、S2(N3)がフランス、S3(N4)がボストンのコンピュータ開発プロジェクトに相当する。(後にN4-IIが追加。)これにNEC独自のプロジェクトであるオフコンの開発(S.5やS.25プロジェクト、N1)が追加される形となっている。
ちなみにフェニックスのN5は東芝が担当。
当時は、CPL(NEAC-2200シリーズ)の強化やDIPS開発など目白押しの上、前章で述べたIC事故の問題などで人手不足であった。NPLプロジェクトの準備もあり、コンピュータ方式技術本部の人材だけでは足りずに、いろいろなところから人材を集めた。後のACOSシリーズとなる汎用コンピュータの開発の方は、通産省つまり国を挙げての事業であるから、非常に多くの人材が投入された。大型の汎用コンピュータの開発は(通産省の肝煎りもあって)いわば花形の事業だったのに対して、オフコンの開発は超小型ということで、人気も金も無く、当初は細々と始められたらしい。
コンピュータ自由化前に国内コンピュータメーカーに国際競争力をつけるために国はいろいろな政策を行った。その1つに「新製品系列開発」プロジェクトがあり、1972年から1976年まで補助金570億円を各コンピュータメーカーに支出した。その条件として、対象メーカー(富士通、日立、NEC、東芝、三菱、沖)を3グループにまとめることがあり、NECは東芝と組んだ。
NECのオフコン開発プロジェクトは、ハネウェルや通産省の計画とは関係ないため、それらの足枷がなく自由に計画を進めることができた。
コンピュータの性能から考えて、S.25プロジェクトのコンピュータのコードネームがLAXで、S.5プロジェクトのコンピュータのコードネームがN1のように思われるが、参考資料のどこにも明記されていないのでこれが正しいかどうかはわからない。どの資料を見ても、S.25とS.5のプロジェクトの成果がシステム100としてしか書いていない。

今まで新製品開発しても、次の製品がなかなか出ずに陳腐化してしまうことが多かったため、この頃には既に比較的短いスパンで次製品を開発していくことも検討していた。例えばNEACシステム100を発売したときには、マイクロプロセッサ開発の目処がついたので、これを使ったものをN1’として開発していこうなどという計画ができていた。