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NECオフコンの歴史


3.NECのオフコンの誕生(1973/8〜1978/9)

3.1 オフコンの誕生

こうして、NEACシステム100は、1973年8月21日のNECの発表会にて初公開されました。

このNEACシステム100の最大の特徴は、マイクロプログラミング方式(ファームウェア)の採用でした。当時のコンピュータの制御の主流は、ワイヤードロジック方式といって、すべてトランジスタで組んだ論理回路で行っていました。このマイクロプログラミング方式のおかげで、のちにCPUが変わってもソフトウェアの互換性を保つことができました。
大きさはデスクサイズで深紅と白のツートンカラーに彩色されていました。入力は紙テープやNEACタイプライターなどで、出力装置としてプリンターが付いていました。

またソフト面での特徴としては、APLIKA、BESTといったソフトウェアも用意されていました。

NEACシステム100は、NPLプロジェクトの1番手として登場しました。このため後に登場するACOSシリーズのモデルケースとなりました。例えば、部品もACOSのものと共通のものが多く、製造ラインも共通であったため、ACOSシリーズを製造するためのコストや工数、さらには製造機械、検査設備などの量産体制のテストの役割を持っていました。

NEACシステム100は革新的なコンピュータとして、同年10月の発売から、わずか1ヶ月間で360台という記録的な受注を確保することができました。

1975年8月にNEACシステム100の後継機であるNEACシステム100Gとその上位モデルであるNEACシステム100Hが発表されました。これらのモデルの主な目的はNEACシステム100発売から2年経過したための機能強化とNEACシステム100のファミリ化でした。


3.2 第2世代のオフコン

オフコン(超小型コンピュータ)は、ディーラー販売に頼らざるを得ず、また主な販売層である中小企業が購入するためには、製造コストは徹底的に安くする必要がありました。このため、オフコンのLSI化が必須でした。

1976年4月に発表されたNEACシステム100E/Fでは、NEACシステム100シリーズとしては初めて全面LSI化がなされました。当時NECでは、横河電気の計測機器用に16ビットマイクロプロセッサが開発されていました。このマイクロプロセッサをNEACシステム100に採用しました。CPU以外のフロッピーディスク、プリンター、CRTの制御部分もLSI化し、さらに記憶装置の部分もNMOS型の4KビットICメモリにすることにより、従来のモデルと比べて非常に小型化することができました。

先に述べたようにNEACシステム100G/Hまでのモデルは、CRTディスプレイが付いていませんでした。NEACシステム100E/FでようやくCRTディスプレイが付き、ようやく今のコンピュータのような構成となりました。
さらに1976年8月に最上位モデルとして、NEACシステム100Jが発表されました。これも16ビットマイクロプロセッサを採用していました。

NEACシステム100は開発当初からLSI化を前提に作られていたので、これで初めてNECのオフコンが完成したといえるかもしれません。またCRTディスプレイにキーボードという今のオフコンとほぼ同じ構成になりました。NEACシステム100とG/Hが第1世代なら、E/F/Jは第2世代といったところでしょうか。

NECのコンピュータ事業は、これまでずっと赤字でした。NEACシステム100でオフィスコンピュータ部門単独ながら初めて黒字となりました。




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日経エレクトロニクス 1973/9/24号の145ページにNEACシステム100の発表の記事がある。これによると

処理業務により9種類の基本システムがあり、最小の紙テープ・ベース・ビリング・システムは伝票発行用で記憶容量8K語(1語8ビット)。最大のディスク・ベース・マルチ・ワーク・システムは異種伝票の同時発行およびバッチ処理システムで記憶容量16K語。各基本システムに、オプションの単一回線制御装置を付加すれば、公衆回線、特定回線を介して、データ通信用コンピュータ・ターミナルとして使用できる。通信速度は200、1200、2400、4800ビット/秒の4種類。通信方式は半2重または全2重。アプリケーション・システム自動作成用のAPLIKA、簡易事務処理用BESTに加え、COBOLが使える。主記憶はMOS ICでサイクルタイム990ns/2語。システム制御、入出力制御用マイクロプログラムは、アクセスタイム100ns/2語のROMと主記憶に格納。買い取り価格は、システムの大きさによって、370〜3000万円。5年リースの場合は9〜100万円/月。

私注:当初COBOLは提供されていないため、おそらく予定で記載されたものと思われる。
サイクルタイムやアクセスタイムの単位が2語(1語8ビットなので2語なら16ビット)となっているように、この時のNEACシステム100は16ビットで処理を行う(つまりレジスタ長やアドレスバスが16ビットの)コンピュータ。
ちなみに1973年の大卒初任給57000円。
ワイヤードロジック方式では、配線のパターンを焼き込んだプリント基板上に電子部品を並べて回路を作っていくため、複雑な処理を行う必要がある場合、基板の枚数も多くなり、配線は非常に入り組み、故障の元となる接点の数も膨れ上がる。当然信頼性の確保は困難になり、一度仕様変更ということになれば、大変な手間を掛けて設計と配線をやりなおすことになる。ROMに収められたプログラムを実行させることにより、回路は整理され仕様の変更があってもプログラムを書き換えるだけで対応できる。これによりオフコンにとって重要なコストの削減が実現できる。マイクロプログラミング方式は既にNEAC-2200の通信制御装置や銀行の窓口用端末機に採用していたが、さらに複雑なシステムのコンピュータには、より必要であった。
東京千代田区のヒルトンホテル(現在のキャピトル東急ホテル)で行われた。
開発部門では、当初からLSI化を見据えてシステム100の開発を行っていた。半導体部門にLSIプロセッサの検討を依頼し、1971年には3年余を待てば16ビットプロセッサまで実現可能の見込みありとの回答をもらっていた。そこで最初のモデルであるN1(システム100)はNPLテクノロジーで作成し、LSIプロセッサ実現の暁には第2ステップとしてLSI化したN1’を開発しようと考えていた。N1’は、後にシステム100E/Fとして発表されることになる。
机型。事務机を少し大きくしたような形で、引き出しの部分の代わりに本体があり、机の上にタイプライター(キーボード)、その奥にプリンターが直付けされている。今から考えると大きさが机のコンピュータというと結構大きく思えるが、当時の一般的な(システム100と同クラスの)コンピュータとしては、かなり小さい。
画面に表示するためのディスプレイ用のCRTはない。その代わりに現在ディスプレイがあるはずの位置にはプリンターが付いていた。最近のコンピュータしか知らない人は驚くかもしれませんが、当時はまだ一般的にコンピュータにディスプレイは付いていませんでした。
ディスプレイに限らず、当時の出力の主流は紙テープやプリンタなど。また入力の主流は紙テープや紙カードだったりします。CPUやメモリがICやLSI化したのもシステム100が登場した前後、フロッピーディスクやハードディスクもだいたいこの頃です。この頃は単位が1バイト(=8ビット)ではないコンピュータもいっぱいありました。
NEAC2200モデル50でCOBOLを用意していたが、このクラスのコンピュータの(専任の人員を持たない)ユーザがCOBOLを使いこなすのは難しかった。そこで当初オフコンにCOBOLは不要という話があり、COBOLとよく似た簡易言語のBESTが採用された。
後にCOBOLやSMARTといった言語が登場したため、現在ではその役割を終えている。
ACOSシステム200、300、400は1974年5月発売、同年12月出荷(NEACシステム100の翌年である)同500が1975年6月発売、1976年5月出荷、東芝担当の同600、700は1974年11月発売、出荷が1975年3月、800、900が1976年4月発売、1977年12月出荷。
ちなみにNPLプロジェクトの結果登場した汎用コンピュータは、ACOSシリーズ77のACOSシステム200、ACOSシステム300、ACOSシステム400等の名前となっており、ACOSシステム100はない。NPLプロジェクトの1つであったNEACシステム100は、ACOSシリーズの最下位機種として「ACOSシステム100」という名前となってもおかしくなかったが、実際はそうはならなかった。
これは、以下のような理由による。他の汎用コンピュータがハネウェル社との技術契約によって作られたコンピュータであったのに対して、オフコンはNECが独自に作ったものだった。このため、ハネウェル社とNECの関係もあり、勝手にオフコンにACOSの名称をつける訳には行かなかった。
オフコンは他のNECのコンピュータのモデルケースという役割も果たしている。本文でも記したように、NPLプロジェクトのテスト機という役割も果たしたし、PC9801を開発する前にシステム20というオフコンの最下位モデルに相当するパーソナルコンピュータを発表している。さらに1990年代にACOSがオープン化する前に、オフコンがExpress5800/700シリーズを発表している。
その直後、オイルショックの影響で一時的に販売不振になるのですが。
NEACシステム100Hは記憶容量のアップ(32Kバイトが48Kバイトに増加)。NEACシステム100Gがバトミントンプリンタなどの各種入出力機器の強化。バトミントンプリンタは、1975年6月に発表されたばかりの最新鋭のプリンタで、後にアメリカにかなりの量が輸出される。印字装置がバトミントンの羽根のような形状をしている。(デイジーホイールの変形版)
要するに販売することによって、ディーラーが利益計上できなくてはならない。そのためには、オフコンの原価が十分に低い必要がある。
NEACシステム100G/Hの下位モデルという位置付け。従来モデルも継続販売されたので、この時はNEACシステム100E/F/G/Hという4モデルのラインナップとなっている。後に最上位モデルのNEACシステム100Jが登場して5モデルとなる。
これらは世界初の16ビットマイクロプロセッサをした超小型コンピュータでした。
後述するが1973年にはNEC初のマイクロプロセッサ採用のN6300シリーズが発表されている。
マイクロプロセッサの名称は「μCOM-16」。1974年11月21日に発表された、16ビットのマイクロプロセッサとしては日本で一番最初のもの。マイクロプログラム制御方式を採用し、コントロール用チップ(μPD756D)、レジスタ及び演算用チップ(μPD755D)、マイクロ命令用ROM(μPD465D×4)の3チップ構成。高速で動作するNチャンネルMOS採用。1975年3月のサンプル出荷時(発売時)のキット価格は約30万円。
マイクロプロセッサは量産することに意義があるので、このμCOM-16もオフコンや計測機器以外にいろいろな用途に使用されたらしい。
初代NEACシステム100が机の大きさだったのに対して、NEACシステム100E/Fでは卓上型まで小型化することができた。回路をLSI化することによって、それまで5枚必要だったプリント基板が1枚となり、システム100にあったキャビネット大の本体をなくすことができた。
ただしNEACシステム100Fはディスプレイ型の他に、従来のようにディスプレイがなく、代りにその位置にプリンターが付いたプリンター型も用意された。保守的なユーザを予想して、プリンタ型、ディスプレイ型を7対3の比率で生産したが、実際売れたのは逆でディスプレイ型が7割と圧倒的に多かった。
この時のディスプレイの表示文字数は40字×16行。